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11日〜忘れない〜

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11日~8回目の夏に~

Gold Wingでは毎月11日に被災地に寄り添い、あの日を忘れないという思いを込めて記事をアップしていきます。
今月はメンバーからの投稿をお届けいたします。

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猛暑の中休みのようだった8月19日~21日、気仙沼から南三陸、石巻、仙台を訪ねてきました。

19日、なんとなく乗りなれてきた(笑)東北新幹線で一路北上。こちらは初めての一ノ関駅。今回の旅はここが起点です。

始まりは唐桑半島。岩手の最南端にある場所で、ビジターセンターには珍しい「津波体験館」があることで有名とか。もちろん入ってみました。やや映像が古く(東日本大震災以前のものだそうで)、画面が小さいのが残念ですが、海が大きく渦巻き、壁のように迫ってくる様子や音、座席の揺れはそこそこにリアル(だと思います)。そのほかに、貞観時代のものから今までの津波被害の年表も。22,000人余の死傷者が出た明治の三陸沖津波、3,000人余の被害があった昭和の三陸沖津波などの様子の写真も展示されていました。
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三陸復興国立公園内の巨釜・半造にある、明治の大津波の際に「岩の先端が折れた」という「折れ岩」を見学(思ったより小さかった)して、今日の宿泊地、気仙沼のホテルへ。ここでホテルの方から1時間ほど当時のお話を。気仙沼は石巻市、陸前高田市に次いで人的被害が高かったところ。地震も津波もひどかったのはもちろんですが、やはりそのあとの津波火災の被害が甚大だったそうです。

ホテルは気仙沼温泉の一軒、高台にあり、海の眺めは最高。温泉はとってもしょっぱい!!なのでつかると体がなんとなくフワフワして、保温効果もばっちり!その夜はぐっすり眠れました。(日頃の寝不足解消?)

2日目は、朝ごはん前の気仙沼魚市場見学から始まります。震災の時は車やら船やら何やらがぎっしりと入り込み積み重なり、目も当てられない惨状だった魚市場。地盤も70cm以上沈下し、再建に当たっては市場全体を1m近くかさ上げしたそうです。水産業は気仙沼の基幹産業。今ではかなり復活し、この日も目玉のカツオはもとより、ふかひれの材料のサメ(サメは皮から肉から骨に至るまで、すべて役に立つエライ?生き物なんだとか)、近海モノのマグロ(凍っていないヤツ)、巨大なメカジキ(長~~い角((あれは実は上あごだそうで))が切り落とされているのでなんだかヘン。)などが水揚げされていました。セリの仕方も最先端の方式を取り入れているとか。また、いま、メカジキの肉をもっと売り出そうと、「メカカレー」なるものを販売売込みしているそうで、ホテルの朝食にも出ていました。

朝食後、バスに乗り込み、魚市場のちょっと先にある最新式の超低温倉庫へ。震災では電気がアウトになったため、冷凍冷蔵保存してあった魚がすべて腐り、その腐臭たるや、鼻が曲がるほどだったそう。(2011年8月に大船渡に行った時がそうでしたっけ。)ここでは、震災後に8社が共同で冷凍庫を再建。-35℃、-45℃、-55℃と3段階の空間を作って保存することで温度を上げずにベストな状態で魚を保存できるようにしてあるということで!もちろん、中に入らせていただきました、-55℃!とにかく、寒い!ってか、痛い!?頭がキーーーン!として鼻の中が凍った。濡れタオルを振り回したら、5回転くらいでカチンコチン。魚を細胞レベルから急激に凍らせるので鮮度が保てるとか。おいしく食べる解凍方法は、冷蔵庫の中でゆっくり解凍すること、だそうです。
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再びバスで南下して、南三陸を案内してくださるAさんと合流。Aさんは南三陸にあるホテルのホテルマンさん。まず、「見てほしい」ということで案内していただいたのが「高野会館」という建物。結婚式場などに使われていたもので、震災当日、Aさんはホテルから少し離れたこの場所にいらしたそうです。ちょうど、結婚式があってお客様がたくさんいらしたそうですが、とっさに屋上(4階建ての5階相当)に全員避難、九死に一生を得たそうです。Aさんは、「この建物は自分たちの会社の所有物なので、いまは会社で管理していて、震災遺構として残したい。でも、行政が………」とおっしゃっていました。(この建物については7月2日の「スーパーJチャンネル」で取り上げていました。)
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防災庁舎を見落としそうになりながら、バスは戸倉という集落へ。ここには戸倉小学校、戸倉中学校があり、震災の日、津波は低地にあった小学校を屋上まで飲み込み、高台の中学校の体育館にまで浸水したそうです。でも、戸倉小学校は有名にはならなかった。いち早く高台に逃げ、学校にいた児童教職員全員が助かったのです。実はそれ以前に先生方が侃々諤々話し合い、「津波の時は、屋上じゃなく、高台に逃げる」と決め、ちょうど前日の3月10日に避難訓練をしたばかりだったんだとか。「先生方は津波が本当に起こったとき、どう思ったんだろう」と聞いてみたくなりました。

東日本大震災における戸倉小学校の避難について ~児童の引き渡しが終了するまでの避難について~」南三陸町立戸倉小学校校長 麻生川敦

どの地域でも多かれ少なかれそうなのですが、この南三陸でもかさ上げ工事が着々と進められ、往時から10m近く高くなっているそうです。さっき、「防災庁舎を見落としそうになった」というのも、防災庁舎の周りにかさ上げの「壁」ができてしまって埋もれたようになっている。風景がまるで変わってきてしまっている。新しく移住してきた人や、小学校4年生くらいから下の子どもたちは「今」の風景しか知らない。「元」の風景や、「津波がきて、町が流されて何もなくなってしまった」ということがわからない。「風化」がどんどん進んでいる。「それがこわい」とAさんはおっしゃる。「だから、伝えるのは、ある意味、苦しい。思い出すのは苦しいけど、でも、伝えていかなくちゃならない」そうもおっしゃったAさんの目が心なしかうるんでいるように見えました。

お昼は「さんさん商店街」。おすすめは「キラキラ丼」。「ウニは8月いっぱいで終わりですよ」と言われていたけど、震災の定点写真展を見ていたら時間切れ。結局、コンビニに駆け込みでした。
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午後は大川小学校へ。旧北上川を川沿いに走るのですが、周りには建物なし。その川幅は約500mだそうで、改めて川の大きさに驚き。大川小学校では、お話してくださるSさんが待っていてくださいました。Sさんは震災当時、女川町の中学校に勤務しており、大川小学校では6年生の次女の方を亡くされました。娘さんはかなり早い時期に発見され、「まるで眠っているようだった。でも……冷たいんですよ。」と言われていました。ちょうど、3月11日は中学校の制服が出来上がる日だったのですが、「手を通すこともなかったんです。」淡々としたその言葉に胸が詰まりました。

Sさんのお話の多くは、震災前の大川小学校の子どもたちや、この集落の人々の暮らしの様子でした。校庭で遊ぶ様子、校舎内での様子、運動会の様子、学芸会の様子、それを見守ってきた保護者や地域の人々の様子………。
「いま、ここには学校の建物以外、何もないです。みなさん、ここに来られると、『なんでこんな寂しいところにポツンと学校があるんですか?』とおっしゃる。でもね、津波が来る前はここにこんな(と写真を提示)たくさんの家があって、たくさんの暮らしがあったんですよ。何も特別な場所じゃなかった。普通の学校、普通の暮らしがあって普通の町だった。震災があって、子どもたちや先生方がたくさん亡くなって、特別な場所になってしまった。でも、それまでは普通のところだったことを知ってほしい。」
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そんなSさん、あの日のことになると、口調が変わったように感じた。促されて、実際に子どもたちが「逃げよう」といった裏山に少し登ってみた。難なく登れた。ちょっと上には、子どもたちが社会科や総合で使っていたというコンクリート製のテラスまであった。津波の到達ラインはそのテラスの下だった。ずっとずっと思っていた、「なぜ、裏山に逃げなかったんだろう」は、もっともっと大きくなった。
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Sさんは、思うところはきっとあふれるようにあるに違いない。こんな風に言われた。「マニュアルのためのマニュアルだった。」と。「津波が眼前に迫ったとき、先生方はどう思っただろう。」と。そして、「助かりたい命があった。助けたい命があった。助けてほしい命があった。でも、助けられなかった命になってしまった。・・・・助けてほしかった。」と。とてもとても、重く感じられました。

大川小学校を後に、石巻港に向かいました。石巻の中心部が近くなると、さすがに道の周りには建物が多くなり始めましたが、ほとんどが真新しいもの。もちろん、更地もあちこちにありましたが、知らない人が見たらたぶん津波の被災地だとはわからないだろうと思いました。(いいことなんでしょうけど。)

今日最後の見学場所は日本製紙石巻工場。2011年8月に実際の様子を見たときは、巨大なコンテナは石ころのように転がっているし、レールやパイプは針金みたいにぐにゃぐにゃだし、車や船は突っ込んでるし、みたいな惨状だったのですが、その時から1年、震災後、わずか1年半ほどでほぼ完全復旧を成し遂げたのだそうです。また、当時、工場内には1,000人近くの人がいたのですが、その全員が無事に避難できたということにも驚きでした。(会社を休んでいた方や、従業員さんの関係者の方など、約120名ほどは犠牲になられたそうです。)
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余談ですが、この日本製紙石巻工場は羽生選手が石巻焼きそばを食べた「東京屋食堂」さんのすぐ近く、また、2014年24時間TVで訪れた「日和山公園」のふもとにあります。
バスツアーはここまで。石巻駅から仙台駅まで仙石線で移動です。あちこちで買い込んだお土産が重い……。

3日目、旧荒浜小学校と羽生選手が以前訪れた仙台空港近くの鈴木さんのお宅(※)、そしてそこから歩いて5分ほどの「千年希望の丘 とに行ってきました。何日かぶりにおひさまキラキラで暑い日でした。ですが………
まだ、行かれていない方、もし、機会があればぜひ行ってみてください。
現地に行って、その場に立ってみて下さい。その場でぐるっと見回してみてください。なるべく、人から離れて。・・・・・・文字や言葉ではうまく表せないのです、あの何とも言えない寂寥感は。

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今夏、訪れた東北は、新しい槌音を響かせて復興への歩みを着々と進めているようにも見えました。でも、それは一部のことで、実はまだまだであることのほうが多いのかもしれません。「思い出すのはつらい。忘れてしまいたいと思う。」と言われたSさんの言葉に、先日の24時間TVでの楢葉町の髙原さんの「忘れないといけないこともたくさんある」という言葉が重なります。でも、少なくとも実際に被災しなかった者として、自分は決して忘れてはいけないんだ、と考えます。そして、あの災害を「知らない世代に伝えていくこと」は、日本人としての責務ではないかとも思いました。

8回目の夏に見た東北の海は、とても穏やかで蒼かったです。

 

(※)鈴木さんのお宅:仙台空港国際線1階4番出口を出て左側に道なりに進み、橋を渡って直進。

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