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11日〜忘れない〜

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11日~大槌町を訪ねて~羽生選手の足跡をたどって

Gold Wingでは毎月11日に被災地に寄り添い、あの日を忘れないという思いを込めて記事をアップしていきます。
先月に引き続き今月も、メンバーより投稿いただいた記事を紹介させていただきます。

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7月24日に仙台で開かれた東北エリアオフ会~吉岡宿をめぐって~に参加したあと、釜石までとび、翌25日に大槌町を訪ねました。
ひとことで言って、遠い!羽生選手はこんなに遠いところまで訪ねていたのか(確かに専用車だろうけど、盛岡エキシの前ですよね)と思うと、感無量。

今回、初めての大槌町訪問だったので、大槌福幸プロジェクトの語り部ガイドさんをお願いしました。車も出していただけたので、ほんとに大助かり。

車窓から見える大槌の町は、ほとんどが更地で、山側にぽつんぽつんと建物が見える程度。平地に「民家」の姿はほとんどありません。ガイドさんは「ここには両側にびっしりと家が建っていたんです。町の中心街でした。」といわれるのですが、ほんとに何もなくて・・・。そんな私を見て、「まずはかつての大槌の様子を」と復興史料館に案内してくださったガイドさん。そこにはかつての大槌の町の立体模型がありましたが、それには確かに家がびっしりと立ち並んでいて、今、通ってきた道すらも、よくわからなかったのです。
その立体模型の家々には、一軒一軒「〇〇さん」と名前がつけられていました。いったい、どんな思いでこの立体模型を作られていたのか・・・息苦しくなる思いでした。
立体模型

次に案内してくださったのは、羽生選手が訪れた旧町役場庁舎。庁舎の建物自体も風化が進み、中も外もボロボロ。窓枠もなくなった窓穴から見える2階の壁や天井は剥がされ、破壊され・・・・・
「この2階の高さを優に越える海の塊が襲ってきたのか」と思いはしたのですが、その力、重さ、恐ろしさを想像すらできなかったのです。
大槌町旧役場跡
羽生選手が祈りを捧げた慰霊堂?で、私もお祈りさせていただきました。目に入ったのは、お位牌にしるされた「1234名」という、亡くなられた方の人数。
思わず「1234ですか」と呟くと、「1234です」とガイドさん。さらに「そのうち、400人くらいの方は、まだ行方不明です。海に流されてしまった方も多いのでしょうが、津波のあとに起きた火災に巻き込まれてしまった方もたくさんいるのです。三日三晩燃え続け、燃え尽きるのを待つしかなかったのですから。」
そう語られたガイドさん。その淡々とした語りが悲しく感じられました。
羽生選手はここに来て、この事実を見た。それはあの盛岡の演技に繋がれた。彼がここを訪れたのは1月。心も体もどれほど寒かっただろうか・・・と胸をつかれました。

車は城山公園へ。大槌の町を一望できるこの高台が、本来の津波避難場所だったそうです。そこに点るのが「希望の灯り」。神戸から分火されたもの。神戸が25年かけて阪神淡路大震災から復興してきたように、いつか、この町も復活してほしい、今、眼下にあるのは更地になってしまった大槌の町だけど・・・・・。
羽生選手はそんな思いももって、盛岡エキシを演じたのかな、とも思いました。
城山公園

さらに車は大槌の町の奥へと向かいました。大槌町は海からはもちろん、川を遡った津波によっても大きな被害を受けました。そのもう少し奥に、あの大槌学園が!この辺りの4つの小学校と中学校が統合された学校。前期課程が小学校、後期課程が中学校(本当に7~9年生と書いてありました)。そしてこのとなりには町立の保育園。いずれも悩みのたねは校庭園庭がせまいこと。もともと平地が少ないところに津波から避難しているからだそうです。
ところが!その保育園のとなりに!あのNHK ニュースのトップ画像になった
「〇〇、誰とするの???」
「〇〇しないよ、まだ!!!!」
が撮影された『パレスチナ子どものひろば』が!
大槌学園のほんとにおとなり。もう、見つけたときにはびっくり!!すっごく嬉しかったです。

大槌の町中から海側へ。赤浜と呼ばれる方面に向かいました。もともとは漁師町だったそうですが、いま見られるのは津波に破壊された防波堤、防潮堤、水門。随所を砕かれ、倒され、あるいは削りとられたその姿は、無言で津波の圧倒的な力を語っているようでした。
ただ、その津波に襲われながらも、流されも壊されもしなかったもの。それが、蓬莱島~あの、ひょっこりひょうたん島のてっぺんに祀られた弁天様の祠だったそうです。島の灯台は倒され、辺りの突堤は破壊されたのに・・・と、ガイドさんがおっしゃっていましたが・・・弁天様が守ってくださった?
蓬莱島
羽生選手もこの島を訪れたそうです。弁天様は芸事の神様。もちろん、羽生選手のことをお願いしてきました。

その後、町の中で最も大きな仮設の商店街、福幸きらり商店街に案内してくださいました。町の方も来られるけれど、工事関係の方もかなり利用されるとか。確かにあちらこちらで、町の再建のための工事が進められていました。
その商店街で見つけたのが、盛岡のエキシで「花は咲く」を歌った白澤みさきさんの応援横断幕。そう言えば、大槌町出身って書いてあったっけ・・・と、またそのご縁に驚きました。
福幸キラリ商店街

最後におじゃましたのが、モーモーハウス!正直、ここを訪れるのがひとつの大きな目標でもありました(^_^;)。
モーモーハウス
お店に入ったとたん、バラ1の羽生選手がお出迎え。中ではスリッパに履き替えます。さらに進むと、新ロミジュリとパリ散の羽生選手が!(しかもサイン入りで!1月の訪問の時に書いていたものです!)
さらに、そのとなりには1月の訪問の際の写真、「美味しい!」と試食した新製品を手にした羽生選手がにこやかに!
もう、これだけで幸せいっぱいになってしまいました。(すみません。何のために来たのかって?ガイドさんには、お願いした最初に「羽生選手のファンです」とお伝えしてありましたので(^_^;))
羽生選手が試食した新製品を私もいただきましたが、ほんとにおいしかったです。
お店では、今は注文されたお菓子の製造発送でとても忙しく、店頭に出す品数も少なくなってしまっている状態だそうです。事前に連絡をして、お取り置きしておいていただいたフレンチせんべいとラスクを抱えて車に戻り、釜石行きのバス停まで送っていただいたのですが・・・なんと!お約束の時間は1時間半だったのに、2時間半もたっていたのです。時計を持っていなかったので、まさかそんな時間になっているとは露ほども思わず・・・。
それなのに、本当に丁寧にじっくりと案内してくださったガイドさん。すばらしい方に巡りあえて、本当に本当に幸せでした。

その方はおっしゃっていました。
「外から来られる方々に対して、町の人たちは笑顔で『頑張っている被災者』を演じてしまう。その姿を見て、みなさんは『ああ、少しは復興しているのかな』と思われる。でも、本当は復興のふの字もない。時間が止まっているんです。適切な言葉がないから『復興』っていう言葉を使っているだけで・・・」

「私たちには、海は遠かった。本当はとても近くにあるのに。建物や防波堤防潮堤で、海が見えなかったこともあって、意識の中で海が遠かった。そして、防波堤や防潮堤を過信していた。まさか、あれを越えるようなものがくるとは思ってもいなかったのです。避難訓練もしていたけど、していただけで、役に立たなかった。マニュアルがあってもダメなんです。どのくらい、『自分ごと』として考えられるか、なんです。」

「旧庁舎も存続か、取り壊しか、で揉めています。見ると苦しくて、という方もいる。でも、大切な人を亡くした方のなかには、『この場所がその人が生きていた証になるから、残してほしい』と。難しいです。」

城山公園で、町を一望しながら、私はこう尋ねてしまいました。

「私たち、外の人間は、いったいなにができるのでしょうか?」

ガイドさんは少し考えてから、こうおっしゃいました。
「わかりません。私たちも熊本の地震を見て、何をすべきかわからないんです。考えつくのは、募金くらい。でも、こうしてここに来てくださる。何年経っても来てくださることは、うれしいです。」

羽生選手は、あの中でここを訪れた。訪れることに意義があると言って。それは本当なんだな、と感じました。
またいつか、大槌の町を訪れます、きっと・・・・・
ほんとにほんとに遠いですけど・・・。

いわて三陸観光復興プラットフォーム

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